一昨日は東銀座でシカゴ駐在時の仲間の飲み会。リタイアしてなお別の事務所・フィールドで現役生活を続ける先輩たちの話に耳を傾ける。
それにしてもこの界隈は、グルメガイドへの掲載を良しとしない格式の店や固定客比率の高そうな店が軒を連ねていて好ましい。
いつもグルメガイドに頼っていながら、そのフェイクも混じった外面優先の情報に辟易する気持ちが、この界隈の落ち着いた、妙に懐かしい雰囲気にほぐされるのだろうか。
街並みに癒されて家路につく。
と格好良く書きたいところだが、歩いて新橋駅に辿り着いた瞬間、コートを忘れたことに気づいて引き帰す。往復30分のロスですっかり酔いも醒めてしまった。
まったく、忘れ物の多さに我がことながら驚いてしまう。
まあいい、帰り着く家が分かるうちは。などとうそぶきつつ帰りの電車で本を広げる。
鹿島茂著「子供より古書が大事と思いたい」
他人の不幸を覗くのは悪趣味だが暗い誘惑がある。真っ当な生活をしていたある人物が、ある日何かのきっかけで特定のものに溺れ、度を超した情熱と資本が投下されることは、人間の業として起こりうる話だ。通常その対象は異性でありカネにまつわる何かであるのだが、それが特定の物品に係る蒐集熱となれば、さらに浮世離れした話となり、俄然興味が増す。
そんな人間の「暗黒面」を晒す、しかし決して暗くならないあくまでポジティヴな(開き直った?)コレクター道を読ませてくれるのがこの本だ。
翻訳の仕事上の調べ物から立ち寄った神田の書店での一冊の19世紀フランスの挿絵本との邂逅が、当時手取り給金18万円の研究者を古書コレクターに変える。
見つけた高価な本を大学図書館予算で購入し、「本は読むことに意義があるのであって、所有することに意義があるのではない」とうそぶくが、図書館から借り出した古書を手にして著者は言いようのない悲しみに襲われる。
「確かに手に持っているのは古書そのものである。だが、扉に図書館の公印がべったり押されたその本は、明らかに何物かを失っていた。130年以上の長い年月を、様々な人の手に渡りながら生き抜いてきた本としての人生に突然終止符が打たれたとでもいうような感じだった。図書館に入れられた本は、同じ本でも生きた本ではない。本は所有されることによってのみ生命を保ち続ける。稀覯本を図書館に入れてしまうことは、せっかく生きながらえて来た古代生物を剥製にして博物館に入れるに等しいことなのだ。新刊本の場合には、いささかも意識に上らなかった本の生命というこの真実が突如天啓のようにひらめいた。そして、その日から私はビブリオマーヌとしての人生を生きることを決意した。私が本を集めるのではない。絶滅の危機に瀕している本が私に集められるのを待っているのだ。とするならば、私は古書のエコロジストであり、出来る限り多くのロマンチック本を救い出して保護してやらなければならない。これほど重要な使命を天から授けられた以上は、家族の生活が多少犠牲になるのもやむをえまい。」
これがこの後、研究者として訪れたパリといくつかの地方都市で、自宅と土地を抵当に銀行から借り入れた金で古書を買い漁るモンスターコレクターが誕生する瞬間であった。
パリの古書店の格付けと店主との付き合い方、古書の装幀、使われる紙の種類、挿絵に使われる版画の種類と技術など、古書にまつわる様々なトピックスが紹介されて飽きさせないが、なんといっても著者が獲物を求めてパリの下町を徘徊するそのコレクターとしての狂気を帯びた?生態に読者は惹きつけられるのだ。
「子供より古書が大事と思いたい」というそのまんまの表題が、それを物語る。
これを読むと、ヴィニルレコードやオーディオにかけるお金なんぞはほんのはした金に思える。
自分の行動にやましさを感じ、相対的に正当化したい願望のある方にはお勧めである。(笑)