Polyhymnia ポリュヒュムニア

枕元にトーマス・マンの「魔の山」がある。
ちょうど釜山に来るときから読み始めたから、かれこれ3年以上読んでいる。といっても手にしては暫く放置し、また気が向いた時に行を追う、その繰り返し。
特に上巻は最近の小説に慣れた人間にとってまだるっこしい展開が続くので、栞を挟んだまま何ヶ月もサイドテーブルの上に打っ棄って別の本に取りかかることが多かった。
作者が12年もかかって著わした大作ゆえ、3年くらいかけて読んでも罰は当たるまい。
内容はといえば、主人公ハンス・カストルプがサナトリウムの生活を通して、近代ヨーロッパに芽生えた知性と人間の原初的な愛、その他もろもろの人間的なものに触れて成長していく話、と総括すると乱暴だけど、まあそんなお話。

従兄弟のヨーアヒムを亡くしたあたりからストーリー展開に勢いが出て面白くなってくるのだけれど、思わず膝を打ったのがハンス・カストルプが、サナトリウムに導入された当時最新のオーディオ機器「ポリュヒュムニア」が再生する音楽に夢中になるくだり。

尊敬する偉大な友人を喪い、愛する人も彼のもとを去ったのち、「怠惰と言う悪魔」に心を奪われつつあったハンス・カストロプがポリュヒュムニアの奏でる「芸術」に目を覚まし、他の入院患者が自室に戻った後も、毎日夜更けまでその観音開きの扉の向こう(のスピーカー)から聞こえてくる音楽に耳を澄ます生活を続けるのだ。
トーマス・マンはこのくだりに「妙音の饗宴」という一つの単元を与え、実に37ページに渡って具体的な楽曲について詳細な描写を行っている。それは楽曲を通してより精神性の高いもの、普遍の精神性にアプローチする手法を描いたもので、音楽評論としても十分に読み応えのある部分である。

僕が膝を打ったのは、いろんな意味でカストロプ同様のものに心を奪われ、停滞していた僕の心を覚ましたものが、僕にとってのポリュヒュムニア、LCRフォノイコ付プリアンプだったからであり、それを通して触れる音楽の世界にあらためて魅了されたからである。

以前触れたように、このプリアンプが僕のアパートに来てから3週間が経過するが、その間、左右バランスの是正のオーバーホールとB電源強化のためのトランス換装(更に強力なシカゴ社製巨大トランス!)を行い、その音は更に研ぎ澄まされてきているのだ。

いままで自分のオーディオ装置から出る音に一喜一憂し、よい音が出たときは「臨場感」や「空気感」など手垢のついた言葉でその喜びを表現してきたが、それを前提にしては今向かい合う音は、言語そのものを変えてしまわぬ限り表現ができないと思うほどなのだ。

無責任を承知で、僕は潔く今までの自分のシステムに対する評価をリセットしようと思う。

僕の中で新たな地平線が現れたのだ。

もちろん、今の音が「完全だ」などというつもりはない。そもそもそんなものは存在し得ないことは承知している。

高域だの低域だのという次元でいえば、横浜に置いて来たマークレビンソンのML-3とAET のSPKR CABLEがドライブするJBLのD130が吐き出し、床を這って下腹部に伝わる魔神のような低音と比べようも無い。
残留雑音だって、2m離れてもしっかり耳に入って来る。
寝起きも悪い。本領を発揮するのは火を入れてから最低1時間後からだ。

じゃあ大袈裟に言うその本質は何かと言えば、なによりも音楽が鳴り出すと、自然に、そこに演奏者がいるかのように敬意を払ってオーディオ装置に向かって相対する気持ちになることだ。

それはまるで演奏者が周囲の空気ごと一緒に僕の部屋に現れたような、すこし三半規管が痺れて脳の認識機能が麻痺したような、不思議な感覚だ。

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例えばエレン・グリモー+サロネン指揮スウェディッシラジオ響の「クレド」。それは時にステージ上の奏者を見る感覚であり、また時にいきなり目の前に鍵盤が広がって彼女の指が高速でその上を駆け抜けていく様を見るようでもある。また彼女がフォルテシモで震わしたピアノの響板が平安を取り戻すとき、残り香のように空気の中に消えいく音がまるで鼻孔で捉えられるかのようである。かとおもえばクライマックスに至る場面でコントラバスの単一音と交互に現れるオーケストラの「滅茶苦茶な」咆哮では、いきなり目の前の空間がめくれ上がって地獄の釜が現れ、ぐつぐつ煮え立つカオスが迫ってくるようだ。そして最後にすべてを許し受け入れるコーラスの圧倒的な安寧。

CDで(正しくはVoyage MPDで)聴く音楽にこれほど心が震えるものだろうか?


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一転してMelody Gardot "The Absence"
のっけからリラックスした、けれども濃密なエキゾティズムが部屋を満たす。

僕の好きな9曲目、Se Voce Me Amaを聴いてみよう。

波に揺れるたゆとう月の明かりをバックに、この上無く甘いデュエットが官能をくすぐる。

それは或る意味でバーチャルなイメージのイクスチェンジという約束を破る、生々しい五感の流入であり、虚構と実体の垣根を破る感性の交歓である。

こうした「約束違反」の音が僕の感覚を麻痺させているのだろうか?

わからない。

ただ毎夜、飽きもせず僕はアンプの火を入れ、聴き慣れたCDに新しい世界を見つける。

おっと、フォノイコがメインなのに、デジタル音源の話ばかりになってしまった。

アナログの話はまた次の機会に。
Commented by 宗助 at 2013-10-27 00:19 x
こちらは季節外れの台風の雨の週末です
オーディオにもまた熱意が戻ってこられているようでなにより

たしかにね、空気感や音場感などと言う言葉を使ってしまうのでは表現しきれないものがありますね、手あかのついた言葉でお互いに分かったような気分になってるだけで

もう少し言うと、絵を構図と色彩とマチエールだけで論じろと言われても難しいように、音も言葉で十分に表現するというのは出来ない事なのかもしれない、とも思います

それにしても、ウインパパにとって、最終的にオーディオに求める音と言うのは、コジェナーやメロディー・ガルドーあるいはグリモーを自分のイメージのように(あるいはイメージを超えて)鳴らしてくれるシステムということになるんでしょうか(笑)

アナログのリポートを楽しみにしています

Commented by windypapa at 2013-10-27 13:00
日本は台風のあたり年のようですが、こちらの半島は穏やかな秋日和が続いています。
気持ちも少し落ち着き、以前は感情が沸騰していたようなことも受け止める余裕が生まれました。

僕がオーディオに求める音ってなんなのか、自分でもわかっていないようです。
空間や奥行きなど、疑似体験を楽しむ最低限の舞台が用意された上で、脳が刺激を受けて何かしら情緒的変動をもたらしてくれるような音でしょうか。

そういう意味では宗助さんの仰る(予め持っている)「イメージを超え」た音を待っているのかもしれません。

by windypapa | 2013-10-22 21:29 | Comments(2)

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